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ラジオスターの悲劇? / 「母なる夜」

 

ラジオスターの悲劇?

 

母なる夜 (ハヤカワ文庫SF)

母なる夜 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

カート・ヴォネガット・ジュニア 1961年発表の三作目の長編小説。

主人公ハワード・W・キャンベル・ジュニアはアメリカ人。第二次大戦中、ドイツでナチ宣伝のための英語圏向けラジオの原稿書きとその放送の中心人物としてナチに関わっていました。その放送の反ユダヤ主義者っぷりは、ナチ党員から大きな賞賛を得るほどでした。すなわち、「国民啓蒙宣伝省のなかでアメリカ問題に関するトップの専門家と見なされて」いたのでした。

彼はまたアメリカ側の特務機関員でもありました。実は、彼の放送によって「ドイツから海外に暗号による情報を送っていた」のです。だが、彼がアメリカ側の特務機関員であることを知る人間は世界でたった3人しかいません。世界中の多くのユダヤ人にとって、ナチスドイツと戦ったアメリカ人にとって、ハワード・W・キャンベル・ジュニアは「悪名高き反ユダヤ主義者で、祖国の裏切り者」であり、はやい話が戦争犯罪人というレッテルを貼られていたのです。

物語は、主人公が後年、収容されたイスラエルの刑務所でこれまでの人生を振り返り「ハワード・W・キャンベルの告白」という手記にまとめるというスタイルでつづられます。

アメリカ人がドイツでナチ宣伝の急先鋒を担いながらもアメリカのスパイでもあったという突飛な想像力に物語のユニークさがあり、どんでん返しに驚き、主人公ハワードの告白に心揺さぶられる一冊です。

 

 

ジョーンズは完全に狂っているわけではなかった。こういう古典的な全体主義思想の困った点は、どの歯車を見ても、その外周に―あちこち抜けているけれども―よく手入れされた無傷の歯が並んでいて、絶妙の機能を果たしていることである。
 地獄のカッコー時計と言ったのもそのためである。八分二十三秒のあいだ正確に時を刻んだかと思うと、いきなり十四分進み、また六秒間は正しい時を刻み、二秒飛んで、二時間と一秒は完全に正しく動いたあと一年先まで進む。
 言うまでもなく、欠けている歯とは単純明快な真実のことである。たいていの場合、十歳の子供でも容易に近づけるし、理解もできる真実である。
 歯車の歯を故意に削り取り、明白な情報の一部を故意に押し隠す―


物語の中で、ジョーンズという男は反ユダヤ主義の扇動家として登場してきます。
人類の歴史を振り返りますと、ナチスドイツによる反ユダヤ主義、アメリカの黒人差別など、人種差別の嵐が吹き荒れた経験を人類は幾度となく繰り返してきました。では、この小説が発表された1961年から半世紀が経った今、人種差別に関わる問題は解決されたかというと決してそんなことはありません。しかし、いま私たちはハワード・W・キャンベル・ジュニアの告白に耳を傾けることができます。「歯車の歯を故意に削り」とっていないだろうか?「明白な情報の一部を故意に押し隠」していないだろうか?いつも心にとどめておきたいフレーズです。

 

 

「戦うための正当な理由はたくさんあるが」とわたしはなおも言った、「無条件で相手を憎んだり、全能の神ご自身も共に憎むと思い込んだりするのは、正当な理由にはならんのだぞ。ほんとうの悪はどこにある? 悪とはあらゆる人間のなかに潜む大きな部分―際限なしに憎み、神を見方につけて憎みたがる部分のことだ。どんな人間にも、いろんな醜さにえらく魅力を感じる部分があるものだが、その部分こそ悪なんだ」
 「悪とは、愚か者にあって」とわたしは言葉をつづけた、「人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」


第二次世界大戦中、「悪者」として生きたハワードだからこそ、本当の悪とは何かが語れると理解ができます。心震える一節です。

 


悲劇の多くは時代にその責があるのかもしれません。しかし、悲劇をより一層の悲劇にするのはわれわれ人間ではないか、とわたくしはこの物語を読んで思いました。



ヴォネガットおじさんは自らの経験からみずから見たもの聞いたものを通じて、人間のことについてほんといろんなことを教えてくれます。そう、「母なる夜」に続くヴォネガット第4作目「猫のゆりかご」も続けて読むとよいでしょう。また違った物語のなかで人間たちがまたまたやってしまいます。

人間ってやつはいつの時代も懲りないよね / 「猫のゆりかご」 - ブーフーとブールーのあいだ

 

最後に、ヴォネガットが教えてくれた「母なる夜」のいくつかの教訓のうちのひとつを引用して終わりにしたいと思います。

愛する人とできるだけいっしょに寝てあげなさい。それはみなさんにとって、ほんとうに好ましいことですから。

 

 

母なる夜

母なる夜

 

 

 

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